自然派のワインに関して思うこと

自然派のワイン。世の中では体に良いからという理由で飲まれていることが多のだろうが果たしてそうだろうか。あれだけ状態の悪い腐敗香が出てしまっている自然派のワインなど体に良いとは思えない。まあ酸化防止剤がたくさん入った農薬が使われているワインに比べたら良いだろうが、、。

それよりも精神的に悪い。気分が悪いことがどれほど健康の害になることか、、。


私たちがワインに求めるものはただ自然であることだけではない。明確な作り手の個性と魅力を内包していなければ私は認めたくないし魅力を感じない。普段の生活の中にない魅力こそがワインではないだろうか。これは私なりの食とワインという世界を超えたところに求めるワインの姿ではあるが。

特に日本人のような居酒屋文化の中ではそれが最も似合っているのでは。もし食との相性だけでのワインならもっと安くなくてはいけない。


ただ自然のままに葡萄を育て自然の摂理に任せワインの醸造する。この意味はいったい何だろうか?

明確な目的意識とはっきりとした方向性こそが美味しいワインが出来る原動力ではないだろうか。ただテロワールを反映するだけのためにワイン作りをするなどあり得ない。


ラボラトリオ・ルペストレはそんな今の自然派の姿に警鐘を鳴らすようなワインだ。明確な個性、異常なほどの存在感、価格は高いのだが我々をはっとさせてくれるような魅力がある。そういった意味ではルロワも同じなのだ。通常の自然派ワインを飲むたびに、どこに魅力があるのか、この人は何のためにワインを作っているのかと分からなくなることがある。自然のままに手助けをするなどと言うこと自体自然に対する尊大さなのではないだろうか。人が介在する以上、一つの作品でありその環境をいかに表現するかが優れたワインだと思うのだが。


1950年代以前のワインは農業を効率化させるための農薬などない時代。この時代のワインは当たり前のように自然派であり、醸造技術などは今のように発達していないから作り自体はその生産者たちの経験則のみ。先代から受け継いだ伝統的手法のみがワインを作り出していた。そして栽培法も伝統的。とても作ってすぐに飲めるようなワインではなかったが、熟成の力を借りることで魅力の塊になるようなワインがあったのだ。当然樽による脚色などがあったり、土をワインに入れたり、作り手によっては違う地域のワインを混ぜるなどいろいろあったとは思うが、極まった個性がそこに存在した。


別に今の自然派にただ文句を言っているわけではない。きっと自然に現在のような多くの自然派ワインは淘汰され、顧客に飽きられることで別の道へ進むことだろう。私が扱っている自然派ワイン多くは自然派でありながら自然派を意識させない(状態の悪いとは違う優れた生産者)ワイン。そしてその中にはラボラトリオ・ルペストのような突出した存在もいる。これから更に研究が進み、生産者のスキルも上がることで新しい自然派の姿が見えてくることだろう。テロワールやビオ・ディナミをちゃんと使いこなすような優秀な作り手が出てくることを祈っています。


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PUR SANG

美味しいワインがなかなか見つからない、ワインのことが今ひとつよく分からない、美味しいワインを探したり美味しく楽しむためのテクニックを学んでみて下さい。

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