ワインの世界は今どこへ向かっているのか

もともと日本のように飲み水が手に入らなかった時代、ワインは水の代わりとして飲まれていました。子供の頃からワインを飲むことに慣れるために飲まされていた時代があるのです。そしてどの時代でも疲れを癒やすための楽しみとしてお酒があったのです。当然宗教がらみも、、。

ワインが美味しいお酒として認識されるようになったのはいつ頃なのでしょうか?

きっと昔は私たちが想像も出来ないような味わいなのではなかったのでしょうか。でもいつの時代も凄い奴がいたはずで美味しいと思えるワインは存在したと思いたいですね。


私がワインにはまったのは1970年代のブルゴーニュやボルドーを飲んだことから始まります。その後1940年代から1950年代のボルドーやブルゴーニュを飲み、今では絶対に感じることの出来ない奥深い世界を見てきました。昔は安かったんですよ!ブルゴーニュの1950年代でも2万円ほどで買えたし、一番高いボルドーでも4万円ほど。ペトリュスとDRCだけはもっと高かったけど、でもオフ・ヴィンテージのDRCなんかは、モンラッシェやロマネ・コンティーはなかったもののラターシュやリシュブールなんて1万円前後で手に入った時代もあるのです。

1950年代までのワインは明らかにその後のワインとは姿が違います。やはり農薬や化学肥料の影響が大きかったんでしょう。それでも私たちはその時代の美味しさとして感動してきましたし、1950年代以前のワインと比較して同じようなワインがないのか探していたりしていました。

1990年前後になるとルロワがDRCを離れ、それ以上のワインを作ると躍起になっていた時期ですが、その時期を境にイスラエルなどで開発された最新の醸造法、栽培に関する知識などが飛躍的に向上しワインの世界が大きく変わってきます。ルロワなどが先導して農薬や化学肥料からの脱却を図ります。そして今自然派が台頭してきているのです。ルロワの先を見る目と真実を見極める目は誰もかなわないほど。彼女だけは迷い行き先を探るワインの世界にとっての道筋を示してくれていると思っています。

さて歴史を振り返ると時代時代によって方向性が違います。先代の人たちを見ながら育った次の世代はまた違った方向性をとることが多く、特に画期的な技術が開発されることで今まで出来なかったことが出来るようになり分からなかったことが分かるようになる。

閉ざされた世界が、コミュニケーションツールによって開かれた世界になっていく。昔は職人の世界と同じでワインの作り方はドメーヌの秘密だったのです。それが今では基礎は醸造学校で学びその後先代などからのそれぞれの家でもやり方などを自分なりに学びかみ砕き自分たちの世界を作っていく。

通常60年くらいで次の世代に引き継ぐのでその間に自分の世界を確立させるわけですが、職人の世界と同じで職人独自のやり方を学びそれをその後受け継ぐのと、学校などで学びそのときの最良のやり方でワインを作るのとでは大きく違ってくることは明らかでしょう。

今の時代はかつてないほどの大きな変革のあった時代。職人技を受け継ぐ人は少なくなり合理性を求め科学的に分析し目的にたどり着く。職人的な世界は非合理的なものとして隅に追いやられる。これで良いのでしょうか。でも今テレビの番組などで、日本の職人技の紹介番組などが沢山出来るようになり見直され始めています。この職人技の中にこそ合理性とは違った意味での凄さがあるのです。今フランスを中心に自然派のワインが台頭してきている一つの理由としてこのこともあると思います。

料理も大きく変わりつつあります。健康指向が世界中の料理を大きく変えつつあります。それと真逆の方向性、まるで対抗するようにラーメンなどのように愛されている食の世界もある。どの世界でも対抗勢力がいる。減塩の世界もあればラーメンのスープなどは真逆の世界。毎日とる食事ですからそれがワインの世界にも大きく関わってくる。

そして今世界中で日本料理が持て囃されています。フレンチやイタリアンの世界も今では当たり前のように和の感覚が入り込んできている。食の世界は底上げされ、不味いものが減りどんな価格でもそれなりに食べられるものが多くなってきています。食という楽しみがある意味万人が享受できる時代になってきたのです。それと同時に逆に料理が出来ない人も増え、家庭内の料理が酷いことにもなっています。料理を作ることが出来ない主婦。全て出来合のもので済ませたりインスタントで済ませたり。どの時代でも問題が起こるものです。

ワインの世界は正直な感覚で言うと面白みが減ってきています。それは私たちの世代にとってですが、昔あれだけ感動できたワインの世界に感動がなくなりつつあります。でもよく考えてみるとワインの世界だけではない。強いインパクトを求めてきた時代は終わったのです。今強い個性はあまり求められなくなってきている。そして私でさえそんな世界に慣れてきていますし逆に良いと思うことさえある。

私はどんな趣向のワインでも自分にとって美味しいと思えるものであればいいのです。自然派であろうが古典派であろうが、美味しければそれで良い。現在世代交代が起こっている時期。どんどん新しい世代の若者がワインを作り始めている。その中には酷いものもあれば光っているものもある。そして将来光る可能性のある人たちもいる。そして新しい技術によって作られている缶ジュースのようなワインもある。コンサルによって誰もが凄いと思えるような作り上げられた世界もある。まるでレトルト食品のような。

ワインの世界は個人の自己満足のために作られる世界と、誰もが享受できるようなインスタント的なワインとに大きく分かれています。評論家が評価するワインの中にはこのインスタント的なワインも数多く含まれています。自然農法と遺伝子組み換えで作られた作物の違いと同じなのではないかと思うほど。

水が普通に手に入るようになった今、普及ワインを作っていたネゴシアンの役割は終わろうとしています。協同組合でさえ質を求める時代。私はあくまでも作り手を感じられるワインが好きです。でも私のワインショップではそうではないワインもあります。つまりインスタントでもこれは凄いというワインもある。そういったワインも飲みながら比較する材料として面白みがあります。私は自然派料理も好きですが、化学調味料が入ったようなラーメンも食べます。どんな料理が美味しいと思ってしまうのか、そんな自分を発見することが面白い。そこにはまだ分かっていない自分の感覚があります。

もし生産者のワインを一つの作品として考えれば、どんな作り方をしていようが美味しければそれで良いと思っています。もし自然派ワインが今までよりももっと素晴らしい世界を見せてくれるならきっとそちらに傾くでしょう。でもたまにはラーメンも食べたくなる。カップラーメンでも食べたくなるときがある。人間とはそういった生き物だと思います。ですから出来るだけ受け入れられない世界を自分の中に作らないようにしています。それが私の仕事でもあるから。拒否するのではなく全てを受け入れ選ぶのが私の仕事。


今の世界は、何でもある時代。ブランドの偽物でも安ければそれで納得してしまう。食でさえ遠くまで行くのがめんどくさければ、まあ今日はこれで我慢しておくかという感じ。どこに行っても外れがない。選ぶ対象はいくらでもあるのです。デフレによって今の日本は異常なほどに競争が激しく自分たちで自虐的に利益を圧迫し競争しています。海外のように内容が金額に比例しない異常事態。だから本物が消えていくことを危惧しています。私はそんな世界の対抗勢力。だから出来るだけ本物を見極めたい。そんな人たちを大切にしていきたいのです。


最後に私はやっぱりはっきりとしたワインが好きです。明確な主張と存在感のあるワイン。自然派の世界にもそんな作り手がいます。そしてそういった作り手の本当の姿を分かるためにはワインのコンディションが大切なのです。コンディションが良くなければワインの真の姿など見ることが出来ないのですから。ここだけはいい加減にしないで下さいね!


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PUR SANG

美味しいワインがなかなか見つからない、ワインのことが今ひとつよく分からない、美味しいワインを探したり美味しく楽しむためのテクニックを学んでみて下さい。

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