感性の優れたワインとは

世界中で知識が行き渡り、コミュニケーション手段も増えたことで日本では今300〜500円出せばとりあえず不味くはない一瞬美味しいと思ってしまうような食事にありつける。中身が何かは問題だが、とりあえず技術によって食べることのできる水準まで持って行く。

昔は安かろう不味かろうの世界が主流で高いものほどよいという感覚があったが、最近では底上げが起こっており最低水準が上がっているのだ。だから逆に飲食店などでは高級路線寄りのお店が多かったのだが、その牙城が崩れてきており選別の目が厳しくなる。それと共に本物を見極める目と本物を求める指向がなくなりつつあり、「これでいいや!」とめんどくさがって適当に済ましてしまう人も多いのではないだろうか。


実はこの現象は世界的な傾向でもありワインの世界でも同じような状況だ。


とりあえず深く感じなければ美味しく飲めてしまうようなワインが多くなってきており、ワインの状態の問題もあり市場に溢れるワインはかなりぼやけた感じで選別しづらい状況にある。


リーズナブル系のお店などでは、ワインの管理にコストをかけられないためにぞんざいに扱っても結果美味しく感じるようなワインを扱う傾向がある。こうなってくると酸化防止剤が少ないワインや繊細系のワインではとてもではないが美味しさを伝えることができない。

ワインの美味しさは同じワインでも扱い方で味わいの違いは天と地の差。でもなかなかその差を実感できるような機会が少ないのも現実である。


さてちょっと話がそれてしまったが、深く考えなければ何となく美味しいワインが増え、中途半端な感じでも満足がすることが出来るようになってきた。ある意味ワインを普及させるには最適の状況であるが、本当に素晴らしいワインを作る生産者の存在が注目されつらくなってきた。


ロバート・パーカーも引退してしまったが、彼は当初とても主観的にワインを評していた。ところが時が経ち引退間近の時期には、なんか中途半端で主観の少ない感じになりつまらない文面が多く選別するワインも熱廃しても美味しいようなワインが多かった。


本質的な評価の出来る評論家が減ったのはある意味商売ベースの評論家が多くなりその中に真の評価が少なくなってきたからだ。顧客もそれを求めない傾向もあり【感性の光るワイン】は今影に追いやられているように感じる。でも主流になるほどにお金の魔力がワインを変えてしまうこともあるので現状が悪いとはけっしていえない状況でもある。


料理の指向が変わってきたのと同じようにワインの指向も大きく変わってきている。健康志向が今世界中の料理を変えつつあり、それと同時にそういった料理に合う自然派ワインが台頭してきたのも当然ともいえるのだ。いままで誰も経験したことのない新しい世界だけに、ワインの世界も試行錯誤が続き、感性の光る生産者たちの入れ替わりも進んでいる。ちょうど今世代交代が進みつつあり大御所と言われてきた生産者が亡くなり、それと同時に新しい世代の生産者たちが彼らなりの感性で新しい世界を作りつつある。一流の生産者の息子が必ずしも優れているとは限らず、ドメーヌを引き継げる有利さはあるが、それが光る感性まで行き着けるかは政治家の2世3世と同じ感じ。


ディディエ・ダグノーのように次の世代になっても更に躍進する作り手もいれば、ラヤスのように甥であるが故に天才ジャック・レイノーのシャトーを引き継げた例もある。代が変わり驚くほどレベルの下がった生産者もおり、醸造家として躍進してくる新人もいる。


商業的なコンサルタントによって作られるようなワインは、ある意味大きな工場で作られた絶品のインスタントラーメンのような感じの感じのワインがあったり、絶妙に全ての要素を上手く詰め込んだようなワインが多く、でも残念ながらその中に感性の光るワインはない。


もともと変人と言われるほど人の話を聞かず、自己の世界を貫き通す人たちの中に天才が存在する。他人から学んで教科書的に作ることと、全てをかみ砕き自己で作り上げる世界ととは根本的に違うのだ。


感性の優れたワインとはその作り手を見れば分かる。作り手そのものがワインとなっているからだ。感性の優れたワインはなにも高価なワインだけにあるのではない。優れた畑、世に知られた畑ほど代々守られた2世3世によって作られているために必ずしも畑が良いからといって素晴らしいワインが出来るわけではない。

感性の光るワインは価格に関係なく存在する。そこを見極めることがこれからのワインの世界で大切なことだと思う。


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PUR SANG

美味しいワインがなかなか見つからない、ワインのことが今ひとつよく分からない、美味しいワインを探したり美味しく楽しむためのテクニックを学んでみて下さい。

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